《中国で日本料理を食べる》
昔から日本料理は中国人に余り評判が良くなかった。中国人に和風定食などご馳走すると、決まって「量が少ない」「味が薄い」「淡泊で食べた気がしない」と言われたものだ。日本食で中国人に比較的好評なのは、ウナギ、カツ丼、トンカツなどボリューム感のある食べ物である。だから、日本に来た中国人をもてなすときは、いつも何をご馳走するか迷ってしまう。そこで何度かは思い切って、カレーハウスに連れて行ったり、ラーメン屋に入ったこともある。だが、当然ながら、これを日本料理と思ってご馳走したわけではなかった。
ところが、最近は、本家である中国にも進出するラーメン屋が現れた。中国では麺類は貧乏人か時間がないときに食べる間に合わせの食事でしかない。だから、「美味しいラーメン」というのは、中国人にとって「豪華な立ち食いそば」と同じくらい矛盾した料理であり、ラーメンだけの店など屋台くらいである。もちろん麺にコシがあって美味しいところもあるだろうが、それだけのことで、美食とかグルメの類には入らない。
だが、ご承知の通り、日本のラーメン屋は中国人なら捨てて顧みない麺類にこだわり、スープにも、面にもこだわった。その徹底ぶりは中国には見られないものである。中国人の発想では料理の世界にもヒエラルキー(階層)があって、金と暇さえあれば麺類は食べずに、かならず冷菜、肉料理、魚料理と続くフルコースを選択する。だから、日本のように「味さえ良ければ、1500円のラーメンでも食べてみたい」というニーズは存在しないのだ。ここに日中間の文化的なギャップが存在する。
いまここで詳しく述べるゆとりはないが、日本では歴史的にも連綿と工芸品を作る職人が存在し、今も続く例えば柿右衛門など名だたる職人が存在する。だが、中国では同様の職人は皆無に近い。むろん存在しなかったわけではないが、文人や書家に分類される知識人の生み出す芸術品が数多く残されている一方で、工芸品の作り手であった職人は宮廷のなかで養われていたが、ほぼ無名のまま名を残していないのである。
そうした歴史的な背景もあって、現在の中国には芸術品は存在しても、質の高い工芸品は皆無に近い。芸術的な天分を生かして、この世に一つしかない作品を生み出す才能は数多く存在するが、高品質の生活用品を生み出す職人はいない。日本では、余りにも職人気質が強すぎて、採算を度外視する親方がいることを美談にすることさえあるだろう。だが、中国では芸術と商売は水と油であって、両立させようとするのは狂気の沙汰と考えるのが普通だ。だから、職人は芸術家となるか商人となるか二者択一を迫られるので、存在できないというのが私なりの仮説だ。
このことが料理とどう関係するのか(^^;)
日本のラーメンもまた時としては採算を度外視して、ほとんど求道的に味わいを追及する職人が多いことは周知の通りである。トリビアルともいえる事柄に徹底的にこだわり、究極の作品を生み出す職人気質はやはり日本の歴史的な背景に支えられているのではないか。「神は細部に宿り給う」という発想は日本だけのものではないが、細部にこだわる余り、本来の価値体系を見失い、全てのものを等価に見なす傾向が行き過ぎることもままあると思う。
むろんラーメンだけが行けないわけではないが(^^;)、日本の価値観というのは、往々にして絶対的な指標を見失い、全てのものをパラレルに評価する不思議な平等観というのものがある。例えば、漫画やアニメの世界でよく言われる「ヲタク」な人々というのは、他人からすると非常に些末で取り上げるに値しないことに以上までの執着と関心を示すという点で、その価値の具現者と言えるのではないか。
…と思いっきり、テーマがずれたようだが、文中でも取り上げられている「味千ラーメン」は中国だけでなく、東アジア一帯で大変人気がある。国内と国外のチェーン店でどちらが多いのか分からないほどだ。その人気の秘密を読みながら考えてみよう。
本文:これはそのままのものをワード版でも配布します。
东派--味千拉面(图)
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